關考一第二句集『サイフォン式』

発行日:2026年09月
発行所:ふらんす堂
著者は「銀化」同人。

句集評

 あとがきに、喫茶店でサイフォンの珈琲を見た記憶が語られている。透明な水が上って、琥珀の色を纏って戻ってくる。作者はそれを、塩辛く苦いばかりの日々から色と香りを抽出する装置に喩え、そんな都合のよいものがあるならそれを俳句と呼びたい、と言う。この句集は、その装置の稼働記録である。

  家居して三が日さへ持て余す
  初仕事から残業をして仕舞ふ
  本業のわからない奴パナマ帽
  炎昼の電柱日陰のやうな奴
  冷房を入れ前言をひるがへす

 抽出されるものの第一は、生活者の自嘲である。初仕事から残業をして仕舞う勤め人、三が日を持て余す家居、冷房を入れて前言をひるがえす夏。時間を句にせず、時間の中で少し損をしている人間を句にする。その視線は他人にも向く。日陰のような電柱、本業の分からないパナマ帽。「やうな奴」と言い切る比喩の乱暴さが、この人の人間観察の速度そのものである。

  藤の房にとどかぬほどに母縮む
  還暦やさくらもみぢの未だ黄色

   伯父死去
  冬麗や一人生まれて独り死す
  狐火も来よ徘徊の父灯す
  さらばへて暦の果のやうに父

 第二は、老いと肉親である。藤の房に届かぬほどに縮んだ母、狐火よ来いと灯す徘徊の父、暦の果てのようにさらばえた父。伯父の死を冬麗の一句に収め、還暦を未だ黄色い桜紅葉で言う。ここでは諧謔が消えるのではなく、諧謔のまま声が低くなる。

  春星に翼端灯の混ざりゆく
  蕗の筋とれば指先より暮るる
  サイフォンを戻る珈琲秋澄めり
  どの桃も傷付きたくて熟れてゐる

 第三に、時折まったく澄んだ句が来る。蕗の筋を取れば指先から暮れてくる句、傷つきたくて熟れる桃、翼端灯の混じる春星。苦味の底から、ふいに甘さが上ってくる瞬間で、装置が最も良く働いた時の産物であろう。

 文体は旧仮名の定型を守りながら、話しことばがそのまま入るテンポの良い文体が気持ちいい。文語の器に口語の毒を落とす、その配合が句ごとに違うから、同じ味は二度出ない。あとがきの言葉どおりである。表題句の珈琲は秋澄む中を戻ってくるが、この句集の珈琲は、澄み切ってはいない。少し濁って、旨い。

感銘の一句

  死んだふりしてゐた海鼠死んでをり

 海鼠は死んだふりのうまい生きものである。触れば縮み、放っておけば動かない。その海鼠が、本当に死んでいた。中七までは日常の諧謔で、冬の台所か、あるいは磯の一景であろう。読者は笑う準備をして下五に入り、そこで笑いが宙に吊られる。「死んでをり」の存続の助動詞が、死という出来事を、いま目の前に続いている状態に変えてしまうからである。

 この句が怖いのは、ふりと本物との境目が、見ている側には最後まで分からないことだ。海鼠は自分が死んだことを知らないし、死んだふりを演じ続けていたつもりかもしれない。そして見ている「私」にも、いつからそれが本物になったのかは分からない。

 あとがきに、俳句という装置には僅かな毒の隠し味が要る、とある。この一句の毒は、笑いと死とを同じ十七音に同居させておいて、どちらとも言わないところにある。滑稽の句として読んでも、生死の句として読んでも、どちらも半分しか正しくない。そのあわいで海鼠はまだ、死んでいる。

記:川森基次

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