下村洋子句集『真水のように』

発行日 : 2020年8月20日
発行所:本阿弥書店

遊牧の俳人:下村 洋子

十五句抄出

姉追いてすずなすずしろ橋渡る
背徳の種を宿せり桃の花
途中まで牡丹でありし家系かな
父を隠し母を隠して夏蓬
わたくしが漂っている大夕焼
夭折の兄を宿せり霜の花
冬麗の落丁のごと母逝けり
薄氷を信じてはならぬ妹よ
姉はまだ花野の花になっており
十五夜の真水のように服纏う
枯木より寂しいものに父の老い
たくさんのわたくしが居る大花野
大枯野わたしを置いてきたらしい
青イチジク母は子の眼に晒される
とこしえに母は花野に居続ける

句集評

 下村洋子句集『真水のように』は、清らかさそのものではなく、清らかでありたいという渇きの句集である。句集名〈十五夜の真水のように服纏う〉が掲げる透明は、暗部を覆い隠す純白ではなく、底の澱を透かし見せる媒質として働く。

 作者の関係意識の核には、つねに母がいる。〈飴色の枯野に母の溶けていく〉のように母は風景に遍在し、〈冬麗の落丁のごと母逝けり〉では一頁の欠落として喪われる。喪失と遍在が同居するこの母を中心に、姉・妹・母を結ぶ血脈が「女系」と名指され、温かな水脈であると同時に逃れがたい牢ともなる。父は〈枯木より寂しいものに父の老い〉のように遠ざかり、その非対称が女系の主題を際立たせる。血はやがて、死者や罪を身に「宿し」「孕む」女の身体の営みへ、そして転生へと転化する。

 作家性をもっとも鋭く規定するのは背徳性である。〈さりげなく騙す快感 蛇いちご〉のように、汚すことが恍惚や解放と結ばれる。エデンへ急ぐ蛇、満たされぬ飢え、メドゥーサやユダら西洋の罪の召喚が、古典季語の世界へ侵犯的に持ち込まれる。

 そして「わたくし」という距離を含む一人称のもと、自己は〈たくさんのわたくしが居る大花野〉と分裂し、右脳や活断層といった身体・地質の比喩で腑分けされ、仮面とだまし絵に覆われていく。

 血縁の牢、背徳の恍惚、分裂する自己 ── これらは一つの渦の別々の局面にすぎない。作者はそれを真水で覆い、最も暗い場所を誰よりも澄んだ目で〈見届ける〉。それがこの句集の、暗くて美しい倫理である。

一句鑑賞

六月の鏡の中にユダを見る

 「六月」は梅雨の季節であり、光も空気も湿り、ものの輪郭がにじむ。その不確かな季節に、作者は鏡の中に「ユダ」を見る。ユダは裏切り、罪、背徳の象徴であるが、この句では外部の誰かではなく、鏡像の中、つまり自己の姿の中に現れている。ここに一句の鋭さがある。罪は他者のものではなく、自分の内側にも潜んでいる。しかもそれは、はっきりとした告白ではなく、湿った六月の鏡にふと映り込むように見える。梅雨どきの曇った光、鏡面の冷たさ、自分の顔を見つめる一瞬の沈黙が、句全体に不穏な緊張を生んでいる。下村洋子の句には、美しいものの奥に背徳や傷を見出す感覚があるが、この句ではそのまなざしが自己自身へ向かっている。自己を美化せず、内なる暗部まで引き受けようとする、作家の厳しい自己凝視が結晶した一句である。

記:川森基次

タイトルとURLをコピーしました