
発行日:2025年8月8日
出版社:椿編集室
著者は、日本の小説家。1989年「静かな家」で芥川賞候補。『奇術師の家』朝日新聞社など著書多数。2021年8月22日、死去。
句集評
――――所収の〈俳句〉150作より
柿落葉研ぎ師の水に落ちにけり
研ぎ師の水とは、刃物を研ぐために張られた桶や流しの水であろう。そこには鉄の匂いや研ぎ粉の濁りがあり、静謐でありながら緊張を帯びた空気が漂う。刃を研ぐ行為そのものは、生活に不可欠な道具を蘇らせる営みであると同時に、切断や死を想起させる行為でもある。その水に、秋の落葉がひとひら落ちてゆく。ここに、自然の透明な循環と、人間の営みがひとつに結びつく瞬間が描かれている。葉が落ちるのは必然であり、水に落ちるのもまた偶然のようでいて、運命の一部のように感じられる。作者はこの一瞬に、自然の不可避性と人間存在のはかなさを重ねているのだろう。柿の葉の鮮やかな朱や褐色は、水に落ちることで刃の研磨に用いられる冷たい水と接触し、色と冷ややかさとの対比を生み出す。それは、生命の温もりと死の冷たさとの境界に触れる感覚でもある。
十五句抄出
水温むとは逝く人の逸れる目よ
枯芝に死者の魂また転ぶ
ドアノブに秋の水いる独居かな
名札なき郵便箱に春の闇
冥界の戸の透き通るまで月鈴子
饅頭に臍の生れし枯芙蓉
雪椿人恋ふことを了いとす
軽さより温さを恨む人の骨
砂浜に骨せりあがる九月尽
炬燵しまう時亡者の脚畳む
空青く胸に崖あり威銃
夜開く目に深々と雪の駅
白銀にはみだす根あり石鼎忌
無呼吸の鯉泳ぎたる木下闇
静かなる病い得たりと氷湖言う
記:川森基次