
発行日:2024年8月8日
出版社:ふらんす堂
著者は「窓の会」常連。
句集評
飛行船ゆく春空の汽水域
非日常的な飛行船が春の空を悠然と進む光景を描くが、その核心は「汽水域」という意外な措辞にある。本来は淡水と海水が交じり合う領域を指す科学的な言葉であり、ここでは春空に仮託されている。空を海に見立てる伝統は古来あるが、単なる海ではなく「汽水域」とすることで、空は境界がゆらぎ異質なものが混交する流動的な場として立ち上がる。春は冬と夏が入り混じる曖昧な季節であり、その不確かさがこの比喩に響き合う。飛行船は速度よりも漂う印象を与えるため、この曖昧な空を進む存在としてふさわしく、さらに近代の遺物的存在であるがゆえに幻想性を帯び、句全体を夢幻的に彩る。こうして春空は「中間領域」として表れ、その中を行く飛行船は人間存在の宙吊り感覚をも象徴する。伝統的比喩に現代語を導入したことで新たな詩境を切り拓いた一句である。異質な要素を唐突に並置し、そこに詩的なズレや不安、あるいは滑稽味を生み出すことに長けた俳句作家の作品抄です。
十五句抄出
くらがりに靴のふえゆく花野かな
風光る鳥に小さな頭蓋骨
腹ばいの春のいるかが来ておりぬ
かばんよりかばんとり出す花の昼
春雨が都会の犀をあかるくす
万緑の鳥籠にいるわたし達
ナイターのみんなで船に乗るみたい
夏雲や船の写真を窓に貼り
菊人形首は倉庫に並べおり
薔薇色の手で渡される雪兎
パイナップル見下ろす月と軍用機
夏来る男気に足す味の素
うたたねのさざなみが来る酔芙蓉
ソビエトを知らぬ娘と大根引く
馬跳びの背のばらばらに日脚伸ぶ
記:川森基次