
発行日:2024年6月6日
出版社:ふらんす堂
著者は「聊楽句会」代表、「海原」同人。
本句集にて「第80回現代俳句協会賞 特別賞」受賞。
句集評
秋兆す憂思ときどき額に来たり
この句は、秋そのものではなく、季節の前触れがもたらす感情の揺らぎを描いています。「秋兆す」という表現によって、まだ秋が訪れる前の段階ですでに心に陰りが差していることが示され、作者の繊細な感受性が浮かび上がります。「憂思」という漢語は、特定の原因に結びついた悲しみではなく、漠然とした憂鬱を濃縮して表しています。和語の「うれひ」や「おもひ」では届かない抽象的な重みを、漢語が強く与えているのです。その憂思は「額に来たり」と表現されることで、観念から身体的な感覚へと移り変わります。額にふと差し寄せる鈍い痛みや重さのように、心の陰影が肉体に刻印されていく。そして「ときどき」という断続的な言葉が加わることで、憂思が不意に訪れる実感がより鮮やかに伝わります。
興味深いのは、この句集全体で作者が「郷思」「秋思」「幽思」「哀思」といった多様な〈思〉を使い分けている点です。それぞれの語が季節や出来事と異なる仕方で響き合い、情念の質を丁寧に分けています。漢語を駆使することで抽象性と具象性が交錯し、句集は独自の広がりと深みを獲得しています。〈思い〉をめぐる作品群が凝縮された、まさに珠玉の一冊といえるでしょう。
十五句抄出
隈取のまなじり上げし薄暑かな
鷺一羽その全景の晩夏なり
黄河秋聲その漣のその延々
秋思とは古き柩の空廻り
うたた寝の瞼の微動冬温し
土匂う土に融けゆく郷思縷々
俳諧有情真夏の月にひっかかる
朝月に寝返りを打つ林檎の香
おほかみの咆哮ののちいくさ無し
屈原を憶えば夏の月満ちて
空白に弱音かくれし古日記
游子思う母の屈託柚子の花
憂国われら杜甫に似て杜甫とならず
JAL22便に哀思を載せる母逝く日
雨音を母の寝息とする晩夏
記:川森基次